2016年

6月10日:教科書を販売するというビジネス

最近、教科書会社の名前を報道で耳にする機会が多い。あまりに懐かしい。そういえば教科書の表紙に書いてあった、こういう会社名が、というものばかりだ。

海洋棟だよりの主旨からはずれるが、教科書採択問題には以前にも書いたのでその続編を。採択権のある側に業者が謝礼金を渡したり、問題集を配布することに関する法的・倫理的な側面は書く立場にない。教科書を採択したこともなければ、教科書採択のために営業したこともなければ、採択された教科書をつかって授業をしたことはないので。「採択とかいうプロセスがあったことを知らずに、配られた教科書を読まされる立場、つまり生徒」にはなったことはあるので、その立場から思ったことを率直に表現してみたい。一言でいえば「どの教科書会社がつくったものであろうが大差はない」ということだ。すべての教科書に共通している部分だけを理解(というか暗記)すれば義務教育は卒業できるのだから。

一方で「大差はない」ということは「差はある」ということだが、その「差」の部分に例えば歴史の解釈とか、人道上の表現問題などが絡むのであろう。そもそもそれが教科書検定制度が未だにある背景であろう。頭をつかうことを知るのを第一義とするのが生徒であるという視点からすれば、色んな記述のしかたに触れてみたいはずであるから、「差」を含む記述をすべて提示するのが最良の教育サービスといえるのではないかと思う。

という考え方に立てば、ある教科の教科書をどれかひとつ選ぶ行為は、提示できる記述の数をひとつに限定する行為であるから、上記サービスの質を低下させる行為に他ならない。したがって現行の、教科書を「採択する」とかいう行為自体が教育の主旨に反する。ましてや、教科書を「検定」し記述の差を平滑化しようという行為は、生徒が受け取れるサービスを削除し、画一化された記述を機械的に頭に叩き込もうとする行為に等しい。前時代的と言わざるを得ない。検定を受けて教育委員会とかいう誰か知らない人が選んだ紙の束を読まされるよりかは、色んな記述を提示されて、それに対して自分の考えをもってみる体験をする方が生徒は鍛えられると思う(楽しいかどうかともかくとして)。

ということで上で提示した問題を解決する方策を記してみる。

  • 究極の教科書をつくる。つまり、すべての記述の仕方を(互いに矛盾するものであっても敢えて)記載した教科書をつくる。さらに、この究極の教科書は検定の必要がないことにする。しかし、この場合、ある単独の教科書会社の意向は、その「究極性」によって相殺されてしまう。だれがつくるのか、究極性を誰が保証するのかという問題も浮上する。。
  • 教科書を複数採択する。決して読むことはない保健体育とか図工などの教科書を購入するお金があるのなら、社会や国語の2冊目の教科書を買うために使った方が、少なくともベターではある。しかし、この場合、教科書会社の採択のための努力、ひいては商品としての教科書の質の低下が懸念される。
  • 教諭が独自に教科書的なものを作成し、その資料にあり得るだけの記述を盛り込む。そういう努力をした公立教諭に対しては義務教育手当を上乗せすればよい。しかし、この場合教諭は大変になるし、、、教科書を業者から買おうという需要が減る。
うーん、他にも解決策はあるのかもしれないが、いずれにしても教科書販売というビジネス自体が成り立たなくなる方向に向かってしまう。問題集とか、副読本とかを主力商品にするしかないのか。。。
6月9日:磁石

電磁誘導で発電しようと思うと磁石が重要な役割を果たすわけだが、今まで磁石についてちゃんと検討したことはなかった。今日は磁石について検討するきっかけを得た。夏休みの理科の実験のような取り組みから、研究成果と呼べるものが出てくることに淡い期待を抱いている。

6月8日:早く抜いてほしい

朝一で健康診断を受けた。採血のときに、血管に刺してもらった注射針を通して自分の血が容器にたまっていくのも見る破目になる(あからさまに顔を背けるのは恥ずかしいし)。が、たまる速度が遅い。痛い。なかなか針を抜いてもらえない。早く抜いてくれ〜と心の中で叫んだのだった。

私の問診を担当した医者の方(若い男性)が、机の上で論文のコピーらしきものを置いていた。問診の合間に読んでいるに違いない。自分もちょっと勉強せねばと思った。

6月7日:交代行列?
いま進めている研究で、交代行列をもちだすと考察に幅が出るかもと思い立った。色々ある○○行列の中では、あまり使用頻度が高くない交代行列だが、今回の活躍やいかに。
6月6日:講義・会議・講義
なんかもう「議」とか「義」という字を見たくない。。。
6月3日:基礎的なこと
今学期の輪講は、偏微分方程式の教科書を皆で読むというもの。自分が学生のときに愛読していた教科書で内容は物理現象を記述する偏微分方程式の導出や解法が説明してある良著。今は自分は英語の原著を座右に置いて英語の勉強用に使っており、学生は翻訳版を読んでいる。自分の研究分野において重要な事項の基礎の基礎が分かりやすく書いてあるので、おのずと学生への要求も厳しくなってしまう。。。いかん、悪い癖だ。
6月2日:査読
ある雑誌の編集者から完全に「査読依頼を断らないヤツ」として認定されてしまった様だ。依頼が頻繁すぎる。
6月1日:コンタクト教員2
私が面談を担当した学生は皆、まっとうに生きている感じがした。まっとう過ぎる、人生打算しすぎな印象の学生もいた。学生時代というのは終わってみて初めて、それがいかに短くて貴重な時間だったかが分かる様な気がする。現役の学生にはその貴重さは決して分からないのだろうとは思う。
5月31日:コンタクト教員
学生と一対一で面談して、学修状況などを確認し合うという制度が導入されて数年経つ。学生を呼び出してあれこれ質問する立場なのでこちらは気楽といえば気楽だが、呼び出される学生にとっては、それほど気楽ではないのだろうとは思う。
5月30日:講義
今学期月曜日午前中に海洋棟内で一こま講義を担当している。内容があまりにも概論すぎて学生に申し訳ない気もするのだがカリキュラムがそうなっているので。概論でもなるべく自分の頭を使って理解を試みて、というメッセージを陰に陽に発しているが、伝わっているかどうかは未知である。
5月27日:腕時計
今朝、通勤時に駅のトイレにいったとき手を洗うところで腕時計を外した。その時計を置いたままにしてトイレを出てしまったことを大学に着いてから気づいた。急いて駅に電話したら、「それと思われるものが届けられています。身分証明書もってきてくれれば返します」とのお返事。帰宅時に駅の事務所に声をかけて無事に時計を返してもらえた。助かった。
5月26日:続『わが思想の遍歴』
序盤は著者(柳田謙十郎)が自らの若かりし頃を振り返っており読みやすい。ただ旧字体が多くて読めない語句が多い。
5月25日:『わが思想の遍歴』
図書館の集密書庫というところには、楽しそうな本がいっぱいある。しかし、カビ臭い。柳田謙十郎という哲学者の『わが思想の遍歴』というすさまじく古い本を借りてみた。今にも装丁が崩壊しそうである。
5月24日:いい疲労
今日は研究に長い時間を使えた。頭を使ったので夕刻いい感じの疲労感を覚えた。
5月23日:月曜日
ここのところ月曜日はどうも体調が・・・。いかん。
5月20日:輪講とゼミ
この学期、金曜日の午前中は輪講とゼミを連続して行うことにしてしまっている。終了後の疲労感がすごい。。。
5月19日:ぐったり
一日中エクセルファイルと向かい合っていたら、疲れ果てた。。
5月18日:語学留学

留年している学生がときおり、「進級条件を満たしているから(これ以上大学の講義を履修する必要がない)」という理由で半年間ほど休学し、その期間に語学留学したいという希望を伝えに来る。賢いという意外に言葉が見つからない。語学については学生のときにもっと貪欲に取り組んでおけばよかった。。。

5月17日:単位互換制度
他の大学の講義を履修すると所属本学の単位として認定できるという制度があるらしい。ある他大学の単位を認定できるようにするための仕事をすること(破目)になった。そんなにも講義って履修する必要あるのかと思ってしまう。。。もちろん、抽選しないと履修できない科目もあるにはあるが、制度をややこしくしてまで導入するほどのものかは疑問である。
5月16日:電子銃

一般教養を増やすために『物理学はいかに創られたか』(上下巻)を読んでみた。電子は粒子としての性質、波動としての性質を両方もっているらしい。うーん、遥か昔、量子論という講義をうけたときから疑問を持ち続けているのだが、やはりはっきりとは理解できない。物理学者の人に尋ねれば教えてくれるのかな?

2つの平行なスリットのある壁に向けて電子銃を用いて電子を放つと、電子はどちらかのスリットを通り抜ける。で、その操作を繰り返すとスリットの後方にあるもう一つの壁に縞模様ができる。これは干渉縞だから電子の波動性の証拠である、という説明。分かるような分からないような。。。

帰りの電車で電子銃についていろいろ想像した。電子「銃」という言葉を使っている事が、少なくとも発射直後は電子が(弾丸のような)粒子であることを想定して(しまって)いることにはならないのだろうか?それがスリットに到達したところで波動性を帯びる?電子は運動すると波動性をもつようになる?最初から、電子「銃」は波動を放射していると考えれば、干渉縞ができても不思議ではない、でもそうすると著者であるアインシュタインが発見したという光量子仮説が説明できなくなるな??

古典力学に染まり切っている私の頭脳では上記の様な想像が限界である。生きているうちに、シュレディンガーの猫とか、コペンハーゲン解釈(の分かりにくさ)を超越した様な物理的説明を聴いてみたいものである。
5月13日:『風土』
今週は和辻哲郎の著した『風土 人間学的考察』を読んでいる。後半に「日本の珍しさ」について論じられている。そこで、日本とヨーロッパにおける「家」のつくりと「家」の所有意識との関連とを論考している部分はなるほどと思った。社会科の授業で世界史や地理について学んだときから抱いていた、諸外国や日本の風土に関する漠然としたイメージが、著者の文章によって表現されているものと概ね合致していることに感動を覚えた。
5月12日:サバイバル
とある組織から、過去のサバイバル体験について執筆依頼が来ていたことを思い出した。以前、その組織の長とそういう立ち話をしたのであった。一昨日から昨日にかけての出来事、「アルコールが原因で体調を崩したが、翌日に見事に復活を遂げた」なんて文章を提出したら怒られそうである。うーん、どうしよう。
5月11日:体調の回復を最優先
夕方に復活した。
5月10日:歓迎
研究室の歓迎会。鶏肉は美味であった。が、アルコールの飲み方をしくじった(チャンポン飲み?)。特に最後の方で調子にのって口当たりの良いカクテルを飲んだのは失敗であった(美味しかったけど)。
5月9日:月曜日
月曜日は体調崩すことが多い。今日もそうであった。今学期の月曜日は午前中に講義1コマ、 毎週ではないが午後一で会議、月1回程度で夕方に会議、6限に大学院科目(院生同士の議論を聴く) という埋まり方。体調不調時にはつらいので、なんとかしないといけない。
5月6日:出勤
教育活動のためにちゃんと出勤した。輪講でいかにも教員みたいな言葉(いわゆる指導)を連発してしまった。教員生活が長くなると人格も教員化してしまうのか?研究室の学生は共に研究する者と認識しているので、私は教員であるより研究者でありたいと思っているのだが、学生側があまりにも「学生すぎる」とどうしても教員化してしまう。。。 。
5月2日:論文見つかる
4月26日に紛失した論文が、机上のファイル群からひょっこり出てきた。よかった。
4月28日:乗り過ごし
今日も出張。だけど研究に関する打ち合わせなので、昨日とは違い前向きである。検討課題も浮上したが参考となる意見も頂戴できた。 しかし、移動中の電車で読書に夢中になっていたら駅を乗り過ごしてしまった。先方と、待ち合わせるはずだった学生に「乗り過ごしました」メールを送り電車で引き返し、焦ってタクシーに乗るという事態を引き起こした。。。
4月27日:報告事項の取捨選択は不可能なのか?
午前中に出張先で会議、午後は大学に戻り会議。午後の会議は「報告事項」の数が膨大で、それを議長が網羅的に読み上げているだけで長くなる。終了後はぐったり。。。6限の講義に遅刻することに。すべての業務終了後はカバンを持つ体力すらなかったので、単行本一冊と鍵だけをポケットにねじ込み、手ぶらで帰宅。裁量労働制というものに疑問を感じる一日であった。
4月26日:論文紛失
他大学からコピーを取り寄せた論文をどこかに無くしてしまった。。。
4月25日:大移動
午前中に講義を行い、午後は大学の外に出かけた。移動だけで終わった。
4月22日:ブラックウィーク最終日

午前中は輪講と研究会。久々に面白いと思った。こんな雰囲気の輪講と研究会を一年を通じて実施できればよいのだが。

夕方は、数カ月間手つかずのまま放っておいた論文原稿の参考文献欄を書いた。投稿先によって指定フォーマットが異なり、それに合わせてリストを作らないといけないので結構大変である。文献管理ソフトを導入しようかと思って調べていたら遅くなってしまった。ブラックウィーク最終日はあまりブラックじゃなくてよかった。さて、山を下って帰ろう。
4月21日:ブラックウィーク後半戦

細切れな時間であっても研究はできる、と無理に思うことにして早朝に研究の作業を進めた。昼は幾つか労働者としての責務をこなす。それが終わった後はある程度体力が残っていたので研究の続き。しかし今ひとつ気分が乗らないので、気分を高めるBGMで自分を励ますことにした。今日はFF5の戦闘曲。

DQとかFFとか、子供のころに命を賭けたゲームの音楽を聴くと、懐かしさでたまに落涙しそうになる。今日は落涙こそしなかったが、FF5戦闘曲のお陰で集中できたので、研究がそこそこ進んだ。

4月20日:ブラックウィークもようやく半ば

午前は別棟で打ち合わせ。これは短時間で終わったので良かった気になっていたが午後が…今日も夕方5時以降は集中力を維持できず…

近くの物をキレイに写す撮影モードを試してみた。海洋棟近くのつつじ
4月19日:ブラックウィーク2日目

午後の打ち合わせが終わったとき、創造的なことに着手しようという気力は残っていなかった…

でも、帰りの電車で『創造学のすすめ(畑村洋太郎著)』という本を読み終えた。

4月18日:ブラックウィーク始まる

手帳をみると今週の平日はすべて何らかの会議・打ち合わせ・ミーティングが入っている。実験作業とか計算に集中したいなあ、という時って、たとえ短い60分くらいの会議であっても。結構痛いときがある。今週は深く考えることは避けるしかない…

4月15日:紙の量を減らす4

居室の紙の量を減らす作業も大詰めを迎えた。本棚がだいぶスッキリした。

4月14日:人口論

マルサスの『人口論』を読み始めた。「人口は等比数列的に増えるが、食料は等差数列的にしか増えない」という有名なフレーズを第1章で宣言し(仮説を立て?)、その後の章でその論拠を述べていくようなスタイルなのか。それにしても和訳が読みにくくすぎて、一読で頭に入らない…

4月13日:紙の量を減らす3

教務担当で4月初めの一番多忙な時期にどうして部屋の掃除を始めたのだろうという疑問を振り払いながら作業を進めた。論文も少し書いた。

4月12日:紙の量を減らす2

今日も不要物をまとめたり、PDF化の作業。ビニール袋などをずっと触っていると手がカサカサになる。。。

4月11日:紙の量を減らす1

学生部屋だけではなく自分の居室も片づける必要があることは分かっていたものの、着手できず数年経っていたが、一念発起して不要なものを捨てることを始めてみた。また紙で保存しておかなくてもよさそうな資料などをスキャンし、PDF化する作業を始めた。しかし量が半端じゃない。あと何日かかるだろうか?

4月8日:学生部屋の掃除

早朝、学生部屋の掃除をした。なんとも汚い部屋なので少しでもキレイにしようと掃除機をかけ、学生の机を拭いてみたりした。少しはましになった気がする。金曜日の朝は学生部屋にざっとだけ掃除機をかけることにした。私が切り盛りしている研究室の学生部屋が置かれている場所は私の着任直後まで、長年ロッカーが無数に置かれていた謎な空間(空気がよどんでいるし日当たりは良くない場所)であった。そこにパーティションを設置したものだから余計に風のめぐりが悪くなってしまった。その空間に人間(ほとんど若い男)が食ったり寝たり?していて、衛生観念の違いも甚だしく、ひどく汚れていたわけである。それを放置していたツケが回ってきた気がするので、これは自分の手を動かすしかないと思ったのだった。

4月7日:教科書づくりは大変だ
昨日、教科書について書いてしまったので、自分が担当する講義の教科書づくりについて否応なしに意識してしまった。なかなか作業が進んでいないので、再び着手した。今年度の秋学期には完成しているだろうか?

4月6日:生徒は、配られた教科書の製作会社名など気にしない

教科書を販売する営利団体としては自社商品の採択は死活問題なのであろう。教科書を改良するという目的で商品である教科書をユーザー(教員)に提示し、結果的に改良が施されるのであれば、目的は達成されたことになる。立派な営業活動であるように見える。ユーザーである教員に謝礼を渡そうとすること自体が法的に問題なのか、それとも公務員である公立の教諭が謝礼を受け取ることが法に抵触するのか、その辺り、法律に疎い私には分からない。確信はないが、私立の教員が民間の教科書会社から謝礼を受け取ってもおそらく問題ないのだと思う。

報道によると、教科書の採択権は公立の場合は教育委員会という(生徒にとっては存在感ゼロな)組織が握っているらしい。とすれば、問われるべきは次の二点であろう:

(1) 教科書会社が謝礼という出費に見合うだけの改良を施したかどうか?(ここでいう改良とは、生徒にとって分かりやすい、生徒の成長に資するという目的に沿う様にするという意味)

(2)教育委員会が生徒にとって、より良い教科書を採択したか?

謝礼を伴う意見を通じて良い教科書が作られ、それが結果的に採択されるのであれば、何の問題も無い様に思える。もし本当に教育委員会が教科書の改良度を評価せずに「謝礼をもらっちゃった」という理由だけで採択を決めたのであれば、それが一番の問題なのだろうが、この点は未来永劫明らかになることはないと思われる(正直に告白する教育委員はほとんどいないと思われるため)。ある新聞では、都道府県別に謝礼を受け取った教員数、謝礼を支払った会社がつくった教科書の採択数などが表になっていた。示唆的という意味で面白いデータだとは思うが報道内容の本質がずれていると思う。

焦点は、「教科書が改良されたか」に絞られるべきである。教員や教育委員会のモラルなど、今更論じたところでさほどの意味はない。ちゃんと改良が施されている教科書がなければ、他人のつくった教科書など使わなければいいだけのことである。それを現場の教諭の判断で行えるようにすればよい。役所が教科書を「検定」という制度自体が時代錯誤な気がする。教諭は改良が十分でないと思えば、それを教科書会社に意見し、お金をもらえるならもらい、そのお金を使って自分で教科書をつくればよいのである。教科書会社は出費に見合うだけの改良努力をして再び営業すればよい。


…と、考えたことを長々と書いてしまったが、生徒が気にするのは、というか、かつて生徒だった私が気にしたのは、教科書の表紙に写った青少年の不自然な笑顔とか、配られたばかりの教科書の紙の香りぐらいだと思う。教科書に書いてあることの是非など、卒業後に生徒が自分で吟味すれば十分である。

4月5日:保護者会

新入生の保護者会を運営した。大学生の保護者になったことがないので、大学の保護者会に参加する保護者の気持ちは想像することしかできないが、おそらくは「帰る前に子供の入る学校をちょっとばかり見ていこう」、「大学が保護者会!?なんか面白そうだ」、「他の子供の保護者が多く出席するかもしれないから、出ておいた方が無難?」くらいの心情なのだと思う。短い時間でサービスに徹したつもりだが、保護者の方はどんな感触で帰路についたのだろうか。

4月4日:袋詰め不要説の追加実証

つい先月まで高校生だった新入生だって資料を1部ずつ取ることはできるのである。本日行われた新入生オリエンテーションでも袋詰め不要説を実証できた。

4月1日:袋詰め不要説を実証

ちゃんと指示すれば大学生集団は秩序をもって行動するもの、ということを強く感じた。2年生〜4年生のオリエンテーションで、「列になって各自1部ずつお取りください」形式は成功した。30名強の学生を数個のグループに分けて列になってもらい資料を取ってもらった。5分程度でちゃんと資料は行き渡った。

さて、これで袋詰め不要説を実証できた。ここに来て「袋詰め」という用語が過去何年にもわたり使われてきたことに対する疑問が膨らんだ。そもそも「袋詰め」という言葉を率先して使ってきた事務からは2年生〜4年生の「袋」は渡されないのである。つまり、これまでは事務からは資料のみを渡され、袋は教員側が任意で用意し詰めたければ詰めてください、ということだったのである。この袋詰めを初めて担当した2009年3月末、袋詰めを義務と認識した愚かな私は必死になって袋に詰めた。10人以上の学生を動員して、、、手を傷だらけにして。。。

それから7年後、手に傷も負わず、少ない人員で、短い時間で作業を遂行できた。「袋詰め」という言葉が一人歩きしていたのである。安全神話ならぬ袋詰め神話であろう。なんでこんなことを海洋棟だよりに書いているか、まったくもって謎だが、妙な達成感に包まれたので思わず書いている。

さようなら「袋詰め」

3月30日:以前は手が傷だらけになっていた

来月の新学期オリエンテーションの準備は自分の仕事である。学生に配る大量の資料をオリエンテーションを行う部屋に運ぶのであるが、その作業を司る事務方は「袋詰め作業」という言葉を使う。だから以前の自分は「資料は袋に詰めないといけない物」と思っていたのだった。

昨年まで資料を角2封筒に入れる作業に多大なる労力(時間×人員)を費やしていた。しかしオリエンテーション開始直後に、学生に「では、袋から資料を出してください。今から資料が全部行き渡っているか確認していきます」という言葉を発するのは私の役目である。昨年度、この言葉を発した時は袋詰めを行うことの意味について少しばかり違和感を覚えただけだった。

それから何カ月が経ち、「袋詰めの必要はない」ことをようやく悟ったのであった。ということで、今年度は自分の担当するオリエンテーションでは袋詰めはせず、資料を列状に並べて置くのみにした。作業は移動時間を含めて数人で40分程度で完了。

さて、この方法うまくいくかどうか?
3月25日:動き出し

昨日、卒業式があったばかりであるなのに、なぜか今日、研究室ミーティングを行ってしまった。しかも昨日、卒業した人も参加。。。たぶん、学生は自分のことを鬼と思ったであろう。でも今年度は、ミーティングをやっておく必要があると直感したのであった。

3月24日:門出

海洋棟で卒業式があった。久しぶりに海洋棟に多くの学生が集った。おめでとう。また会いましょう。 海洋棟近くで撮影。春である。

3月23日:増えつづけるもの

会議の審議事項の数、会議の時間。

3月22日:乗り過ごし

朝、電車の中で読書に夢中になっていたら乗り過ごした。早起きしたので無傷で済んだ。よかった。

3月18日:ルーティーン

流行語らしい。だが、事務作業での「ルーティーン」は危険である。ちょっとした工夫で作業量を軽減できるのに、その工夫を怠るとルーティーンによって結果的に自分を追い詰めることがあるということを学んだ。

3月17日:事務な日々

3月の勤務時間の大半を事務作業に費やす様になって何年たつだろうか?講義のない期間だから研究に時間を長く費やしたいが、大学の机上ではそれは無理だということをようやく悟りつつある。同時に事務作業から解放される通勤時間がよい研究時間となっている。つり革につかまりながら「ああでもない、こうでもない」と考えることに慣れてきた。思いついたことをメモするミニ手帳も持つようになった。ただ寒いと、手帳に字がうまく書けない。

3月15日:会議で吹く冷ややかな風

会議という場では議長の役割は重要だなと痛感する。議長の役割は議事を進行させることだとは思うが、それ以上に重要なのは会議に出席した人間が気持ちよく会議を終えられるように「心配り」をすることだと思う。ある出席者の発言内容が、他の出席者の興味から逸れていた場合、発言後に沈黙が流れることがある。この沈黙処理はある程度は議長の責任だと思う。たまにだが議事進行と心配りを両立できる人に出会う。私はまだ議長を担うほどの立場ではないが、もしかしたら議長役を担う日々が来るのかもしれない。両立できる人の人柄を胸に焼き付けようと思う。

3月12日:冷え切る身体

寒風の中、あるイベント会場に来場した人々の受付をする、という業務をこなした。気温が低いのに加えて風も強かった。手がかじかみ、また風のために来場者リストの紙がめくれるため、来場者名簿にチェックを記すことすらままならなかった。おまけに体が冷え切り集中力が散漫になり、来場した人の氏名を伺ってもリストからその氏名を見つけるのに苦戦した。

久々に体が冷え切るという体験をした。子供のときは、これを苦とも思わず走り回っていたのだなぁ。

3月11日:燃料切れ

朝から何もできそうにない雰囲気は漂っていた。身体的には健常だが気持ち的に何となく気が抜けてしまった。研究は手につきそうもなかったので、事務処理的な作業を淡々とこなした。

 

3月10日:減らない事務処理ミス

作成した領収書の日付が誤っていた。出張先の秘書の方に急きょ作り直していただいて事なきを得たが、なんとも痛恨である。親切な秘書さんで助かった。前日に十分に注意して作ったつもりだったが、注意力が足りなかった。。。

 

3月9日:メール派?

この時期に多い業務として、年度初めに配布する資料の入稿前原稿のチェック作業がある。本日も一件、依頼が来ており原稿をチェックすると、修正を要する点が多いことがわかった。これら修正をすべてメールで打つのは気が引けたため、担当者に電話で伝えてみることにした。電話に出た担当者に「修正をお願いしたい箇所があるのですが…」と一言断ったところ、その担当者に開口一番「え〜と、メールでご返信いただけますか」と言われてしまった。一瞬、呆気にとられた。この時期忙しいのはお互いさまだからということで気持ちを鎮めた。ふう。。。

 

3月8日:座っていたのは1秒くらい?

修理に出していた腕時計を量販店に受け取りに行ったら、時計コーナーの店員さんに「お預かりしている時計を持ってまいりますので、あちらの椅子で座ってお待ちください」と、数メートル離れた椅子を指さされながら言われた。「修理完了の連絡が来てから間が空いたし、探すのに時間がかかるのかな?」と思いつつ椅子まで歩き座りの体勢に入った直後、「お待たせいたしましたっ」という声が。「いや、待ってませんが…」と口に出そうになったが、出るはずもなく腕時計を受け取った。「客に椅子で座って待つように言う」ということが接客マニュアルに書いてあるに違いない、などということを考えながら、直った腕時計を腕に付けた。

 

3月7日:メールで読みたくないフレーズ(その5)

「ご対応ください」:このフレーズが含まれるメールは、こちらが「対応」しないといけない何かが重い場合が多い。できることなら読み飛ばしたいメールによく書かれるフレーズである。

 

3月4日:メールで読みたくないフレーズ(その4)

「お送りください」:添付ファイルで送るか、印刷して紙で送るのか不明な時がある。最近は原則、添付ファイルで送っているが問題になったことはない。

 

3月3日:メールで読みたくないフレーズ(その3)

脈絡のない「よろしくお願い申し上げます」:何をよろしくお願いされたかが分からないのである。私はメール本文の最後にこのフレーズを頻繁に書くが、「必要だろうか?}と思い悩みながらタイプしている時がある。なかったら、あっさりとした印象を与えてしまうので入れようという心理が働いている気がする。よろしくお願いしたいものは何かが伝わる様に書こうと思っている。あまりにも枕詞のように書いている業務メールも多い。

 

3月2日:メールで読みたくないフレーズ(その2)

「ご確認ください」:これも確認しさえすればよいと思ってしまう。気持ちが急いている時は、「確認する=見る」と解釈して、添付ファイルを(ざっと)眺めた後に修正の有無にかかわりなく「確認いたしました」とだけ返信したくなる誘惑にかられる。

 

3月1日:メールで読みたくないフレーズ(その1)

3月に入り春の兆しが、と書きたいが寒い。実質的に冬である。海洋棟まわりの銀杏は葉が完全に落ちたまま。ただ、土木棟入口の梅は芽吹き始めているので、季節は進んでいる。

講義がなく、卒業審査も終わり海洋棟には学生がほとんどおらず(研究に勤しむ人を除く)、静けさが漂っているので、『学問のすすめ』に触発されて勉強しようと思うが、3月(年度末)ということで多くの事務的仕事が入ってくる。主にメールを通じて。メールで仕事を依頼されたり依頼することは日常的に行っている。そんな中、メールでの仕事依頼には注意が必要であると頻繁に感じる。特に依頼内容の伝え方に。そんなことをふと思ったので、今日以降、メールで読みたくないフレーズを思いつく限り書いてみる。もちろん、これは自分がメールを書くときに留意すべきことでもある。


「ご検討ください」:検討しさえすればよいと思ってしまう。「はい、検討しました」とだけ返信する人も少なからずいるのではないだろうか。

 

2月29日:痛快

福澤諭吉の著した『学問のすすめ』の現代語訳を読み終えた。有名な本だが読んだのは初めて。こんなにも痛快な内容とは思っていなかった。著者は大学を設立した学者というイメージがあったので、「お勉強は大切だよ(^^)」という柔和なタッチで書かれていると想像していたのだが、まったくそんなことはなかった。開国後の日本の行く末を想い、国民に、世のため人のために「役に立つ」学問に邁進せよと説いている。同時に、精神の独立を妨げる、次に挙げるものを徹底的に批判している:

江戸時代の身分制、幕府のお上意識、ただ従順なだけの民衆、他人への怨望(大奥)、仇討(赤穂浪士)、孔子の言葉の一部など

私の想像よりも遥かに激しい本であった。学問を単に「すすめ」ている範囲にとどまっていないと思う。内容と題名をマッチングさせるために本のタイトルをを変えた方がよいのではと思った(恐れ多いけど)。例えば『学問せよっ』とか『学問することの義務』など。

 

2月26日:発掘

若手研究者の集いイベントが終わった後、帰りの電車でPDFで提出された学生の卒論を眺めた。取得した実験データからは興味深い考察ができそうだが、卒論にはそれらのデータが羅列してあるのみで、これといった考察はなされていない。通読するには相当の覚悟が必要な感じがしたので通読は断念し有用データの発掘に専念することにする。講義のない3月は卒論の発掘データの再吟味・考察のやり直しに時間を充てたいと思う。

 

2月25日:再会

若手研究者の集いのような企画に参加してきた。久々に楽しいと思えるイベントであった。再会できた研究仲間もいて、参加という決断は正解であったと感じる。

 

2月24日:検収

会計手続きのミスを連発してしまった。書籍の立替払請求書に明細を添付し忘れる、書籍数冊の検収を受けた際に、押印を受ける場所が不適切で全品検収の証明になっていない等である。私のチョンボであるので反省した。事務の人には、私が提出した書類をわざわざスキャンしそれをメールで送るという手間を増やしてしまった。会計手続きが年々煩雑化しており、追加されたルールに私が適応できていないことは認めねばなるまい。

 

2月23日:せつどう?その2

昨日の夕方と今朝、電車で読んだ摂動論は面白かった。一見解けそうにない方程式を近似的に解ける方法らしい。コンピュータにガンガン計算させなくても近似解を書くことができるのであれば、工学的に有用かもしれないという印象。少し勉強を続けてみようと思う。

 

2月22日:せつどう?

午前中、次年度の卒論テーマを考えるために本棚を眺めていたら、積ん読状態になっていた摂動論の教科書を発見した。卒論テーマになるかはともかく、面白そうだったので持って帰って電車で読むことにした。

 

2月19日:ノート採点その4

採点の週である。ノート採点を完了した。期末試験よりも採点していて楽しかった。採点対象の「付け焼刃率」を下げ通常期(期末試験がまだ近くない時期)にじっくり勉強している率を高められるという意味で有効かもしれない。次年度も試そうか。

 

2月18日:ノート採点その3

採点の週である。講義中に課題を出してノートにその解答を書いてもらい、期末にノートごと提出するように言っておいた部分を採点した。出来はまずまず。種本を見つけ(て写し)た人と自力で解いた人との学習効果の違いは大きい。正解不正解の関わりなく論理の記述が豊富なものに高いポイントを与えてみた。

 

2月17日:ノート採点その2

採点の週である。「講義中は最低限のことしか扱えないから、講義後に自分で勉強してノートに加筆しておいてね」と、しつこく言ったつもりだったが、自習した形跡はわずか。ま、こんなものか。

 

2月16日:ノート採点

採点の週である。今年は期末試験を行わずに提出されたノートを見て採点することにした。綴じてある普通のノート、ルーズリーフをクリップ留めしたもの、レポート用紙を製本したもの、ルーズリーフをクリアーファイルに入れてあるもの、色々ある。しっかりとした文房具を使っているからといって必ずしも講義をよく聴いているということではないらしい。

 

2月15日:のめりこむ

卒論審査を終えた学生と卒論の後処理について話した。「与えられた問題に対して表面的に暫定的に対処するのではなく、その問題にのめり込むことが必要だよね」みたいな教員っぽいことを話してみたら、その学生は以外にも共感していた様に見えた。進学後にのめり込んでくれることを願う。

 

2月11日:水泳

プールで人が泳いでいる姿を見た。どうしてあんなにスイスイ前に進めるのかとつくづく思う。自分は泳ぎは苦手である。前に進む気がしないのである。高校生のとき、泳力でランク分けされたことがあり4つのランクのうち下から2番目であった。「一番下に入らなくてよかった」と、同じランクに入った友人と空しく喜びを分かち合ったことを思い出してしまった。今更ながら高校を卒業できてよかった。

 

2月10日:昼ごはん

大学生協は長期休暇中は短縮営業となり、それに伴い弁当の配達サービスもお休みらしい。ピンチである。

 

2月9日:無次元化

この冬に取り組んだ、「紙と鉛筆のみをつかう研究」では、無次元化で苦労した。無次元化した後に分母の値がうごくのは、やっぱり気持ち悪い。計算をやり直しである。

 

2月8日:審査会その2

卒業論文の審査会に参加した。う〜ん、やはり修論よりも面白い。初々しさかな。

 

2月4日:審査会

修士論文の審査会に参加した。審査する立場になってから長いが、未だに「プレゼンを見て何を審査 していいのか」がよく分からないというのが正直なところ。私は、プレゼンの上手い下手はあまり見ずに、 「ちゃんと自分で作り上げた感」が出ているものを高く評価してあげたいと思って採点しているのだが、 どうしてもプレゼンの上手さに引きずられる…ちゃんと自分で作り上げたからプレゼンも上手いのだろうとは 思うが、空っぽの内容をパワーポイントの巧みな色付けで演出することは実際可能だし、そういう発表も あると感じる。少なくとも自分が指導を担当する学生には、愚直にやる様に言うのみである。

 

2月3日:意志

『愛と心理療法』(スコット・ペック著)という本を読み終えた。著者によれば愛とは自分や他人の 精神的成長を培うために、自己を拡げようとする意志なのだそうだ。それは感情ではなく行動が伴うもの。 「確かにそうだな」と納得し、少し勇気を得た気がしたが、それと同時に「自分には行動が伴っているかな?」と自問したら、かなり不安な気持ちにもなった。この本、また読み返そう。

 

2月2日:反対側まで歩く

先日講義が終わった後講義室内で昼食の弁当を食べていた学生がいたので、他の皆はどこで昼ご飯を食べているかと尋ねたところ、すぐ近くの学食との答えが返ってきた。その学食は昼休みには長蛇の列ができるので、私は昼休みには決してその学食は利用しない。その代わりに、昼休み前後の空いている時間をねらう事が多い。

 

たまにではあるが海洋棟からキャンパスの反対側まで歩き、昼休みでもあまり混んでいない学食に行くこともある。歩くと10分弱かかるが、結構いい散歩になっていると思う。寒くなければもっといいのにとも思う。

 

2月1日:裏紙

A4コピー用紙の裏紙を計算用紙として使う習慣が身について久しい。計算が何枚にもわたってしまう場合、綴じてあるノートだとページをめくらないと前のページに書いてあることを確認できない
のに対し、裏紙は一面に広げて置けるので見やすいという利点がある。

 

では、使った裏紙をどう処理するか?頻繁に悩むが、大抵ノートに貼る。これがいい方法かは分からない。
私が中学生のときの理科の先生が授業内容をわら半紙で配りノートに貼るように指示していた。その結果、ノートは分厚くごわごわになった。大して使ってもいないノートが、いかにも使い込んだように見える、という点で悪くはなかったとは思うが、いまいちしっくりこないまま、その習慣が身について20年以上たつ。ごわごわノートは少しずつ増えてきてしまっている。。。

 

1月29日:書く

"How to Write a Lot"の著者Paul J. Silvia氏によれば、論文などの生産量を上げるためには、とにもかくにも毎日、書く時間を「見つける」ことが大事なのだそうだ。「そのうちまとまった時間に一気に書こう」などという甘い考えは通用しない。

 

最近この本を読みなおし、その内容に納得させられる部分が多かった。文を定期的に書くことで頭のスイッチをオンにするため、「海洋棟だより」を再開することにした。