YNU -Marine Environment Design Laboratory-

2013年

9月2日:「今回は」

 

研究発表のプレゼンを聴いていると、しばしば「今回は……」という言葉を耳にする。例えば修士論文の発表会で「今回は…」と言った場合、それは2年間かけて行ったひとつの研究のことを指すのか、それとも2年間在籍して複数の研究を行い、そのうちのひとつを取り上げて他と対比させるために使っているのか、分からないのだ。単に自分が取り組んだ研究のことを指すのであれば「私は」、「自分の研究では」、「本研究では」といえばいいと思う。

 

「今回は」に違和感を感じるのは自分だけではない思うのだが、少なくとも私の周囲では枕詞として定着している感がある。

 

8月30日:レポート書き

 

学生の時、特に教養科目を取っていればよい1〜2年生の時、自分はレポート書きが楽しくて仕方がなかった記憶がある。数学や物理の演習問題を解くものは、それはそれで面白かったがそれ以上に自分の専攻とはまったく無関係な科目を敢えて履修し、その講義のレポート執筆に多大なるエネルギーを費やした。

 

確かロシア美術というような講義があり、私はそれを履修した。本来この講義時間には数学か何かの選択必修科目があったので、そちらを履修すべきであったが、何を思ったかロシア美術論を選んだ。講義内容はほとんど覚えていないが確かルボークというロシアの伝統的な版画の歴史についてだったと思う。講義内容も面白かったし、他のクラスメイトが選択必修の数学を受けている最中に自分だけ、ロシア美術について学んでいるという状況になぜかワクワク感があった。

 

レポート課題は「伝統的絵画や版画について論じる」というあまりにも漠然としたものであった。自分は日本の絵馬を取り上げ、絵馬が江戸時代の民衆に対して果たした役割を論じた。図書館で資料を集め、下書きをしてレポートを書いた(汚い手書きで。その当時、Wordなど無かった)。これ以上ないくらい熱く論じた。今にして思えば、根拠薄弱な、歴史家からすればとんでもない内容だったと思うが、会心の出来だと自負して意気揚々と提出したのだった。

 

その講義の評価は「A」であった。教員はどんな気持ちで私の絵馬レポートを読んだのだろうか?今でも知りたい。苦笑しながら読み進め、調査努力と論点のごく一部を評価してくれたのかもしれない。

 

学生時代に専攻とは無関係な講義を取り、それによりレポートという形で自分の考えを述べる機会を得たことは良かったと思うし、何より楽しかった。自分が大学に入った意味があるとすればこの点につきる。

 

8月29日:レポート読み3

 

約1ヶ月間、学生のレポートと格闘し、昨夜、全部読み終え採点を済ませた。8月は複数の出張、お盆休み、入試業務などがあり、細切れの作業ではあったが〆切に間に合った。今年度のレポートで「あっ、すごい」と思ったのは3つ。1つは与えられた課題に係わる自分の考えをしっかり自分の言葉で述べたもの。もう一つはある事柄がもつ問題点を浮き彫りにするために自分で「比較対象」を見つけてきて比較しているもの。3つ目は課題に係わる事例を自分で足で運んで具体的に論じたもの。提出されたレポートが10個あると、そのうち1個くらいが本当の意味でレポートといえると思う。

 

8月28日:レポート読み2

 

2番目の評価ポイント、文章表現は人さまざまである。講義では理工系文書の書き方を教えているつもり。よく指南書に書いてある、「簡潔明快に書くこと」を強調しているが、多くの学生には伝わらない様である、または伝わってはいるが、いざレポートを書く段階で忘れてしまっている様だ。

 

8月27日:レポート読み

 

職業柄、学生の書くレポートを数多く読まなければならない。また、それを評価しなければならない。なんと難しい作業か。今年も成績評価の〆切がせまっているためレポート読みに精を出す時期が来た。私が学生に課すレポートは漠然としたテーマを与えて、「それについて論ぜよ」というだけのものである。計算問題を解いたりするものではない。幸か不幸か、この課題が与え方が、読む価値があまりない多くのレポート(約90%)と目を見張る様な考察が書いてある少数のレポート(約10%)との出会いを可能にしている。

 

学生には一応、評価ポイントは
メッセージ(レポートで言いたいこと)があるか?明示されていなければ採点対象外。
文章表現は適切か?
そのメッセージを支持する情報を集める努力をしたか?
の3つだけと伝えてある。不思議なもので、メッセージを明示せよと強く伝えてあるのに、明示しない学生は毎年多い。評価はおのずと下がる。私が一番評価を低くするのは、幾つかのウェブサイトを参照し、散々引用(つまりcopy & paste)したうえで最後の「まとめ」のところに「今回のレポートでは、○○について考えた。」と記してあるパターンのもの。これが一番多い。「考えた」と最後に書いてあることで、実は何も考えなかったことがひしひしと伝わってきてしまう。

 

8月1日:査読

 

先月から今日にかけて査読について立て続けに色々なことが起きた。

 

(1)他人の論文の査読を引き受けた。
 2件依頼があり2件引き受けた。う〜、重たそうだがやるしかない。。。

 

(2)他人の論文の査読をした。
 1件〆切間近だったので査読コメントを作文し、エディターに送った。鬼か仏かと問われたら自分は仏だと思う。

 

(3)自分の論文の査読結果が返ってきた。
 恐る恐るコメントを読んだ、、、基本的にポジティブだ、良かった。一方でテクニカルな面で改訂要求が多数ある。改訂に向けて準備を始めよう。

 

(4)取り下げた自分の論文原稿に対して、拒否の通知が来た。
 ある雑誌に投稿した原稿が編集者によって9カ月強放置されたことがあった。雑誌出版社やその編集者に何度も問い合わせたが無視され、頭にきたので、出版社と編集者に原稿取り下げの連絡をした。それから数カ月経った今頃になって、「あなたの投稿論文は規定により査読にまわすことはできません」と書いてきた。なんとも気分の悪い対応である。この雑誌に論文を投稿することは二度とないであろう。

 

(5)自分の論文を査読者の意見に沿って改訂し再投稿した。
 改訂で何が一番大変かといえば、一番最初に論文を投稿した時から数カ月以上経っているため「色々なことを忘れている」ということだ。データの保管場所、資料の保管場所、(自分が書いたはずの)解析プログラムの中身、(自分が書いたはずの)数式の意味など、こうした事柄を思い出さないといけない。今回の改訂では、かなりの時間を費やした。たぶん最長記録だ、もちろん悪い意味で。

 

せっかくの研究できる(短い)時間をこのような作業につかったので、今進めている研究が滞ってしまった。。。

 

7月31日:「定数は積分の外に出せばよい」とは限らない

 

うむ〜、この2週間ほど苦しんだ原因はどうやら「定数だから外に出したこと」にあった様だ。

 

高校生のとき、被積分関数に積分変数に依らない定数が因子として含まれる場合、「積分の外に出せるよ」と習った。その時以来、定数は外に出すのは習慣になった。高校で習う積分はほぼ、文字式のみの世界だ。それに対して私が行う研究では、文字式を導出することよりも、その文字式に具体的な値を代入して積分値を算出する機会の方が圧倒的に多い。

 

文字式のみの世界では、定数は積分実行が完了するまで、ジィーと外で待っている。んで、完了したら積分結果と掛け合わされる。一方、数値的な世界では定数は積分実行前に外に出してはいけない場合もあることが分かった。定数に先に外に出てもらってから、その定数以外の被積分関数が非常に大きな値をもつとき、積分結果も巨大な値となりコンピュータがあつかえる数の最大値を超えてしまう場合がある。定数を積分の中に入れたまま積分を実行すると、その定数のお陰で被積分関数が大きな値をもつことがなくなり積分の発散を抑え結果が有限値となる。

 

…という様な研究の本筋とはほとんど関係ないことを習った。

 

7月17日:爽は混ぜないでほしい

 

熱くなってアイスを食べる機会を増えた。ロッテの「爽」は私のお気に入りだが、最近、コンビニのアイス売り場での爽のラインアップを見て残念に思う。混ぜ物が多いのだ。白地と紫(グレープ)、白地と赤(ストロベリー)など2つの味が混ざったものだ。う〜、私はあまり好きでないので、最近はほぼ100%、バニラをえらぶ。

 

先日、バニラと抹茶のコンビも見つけた。バニラも抹茶も単独では(超)好みだが、混ぜられるとなぁ…結局買わなかった。それにしても、爽の抹茶(のみ)というのが、10年前くらいにはあった気がする、今一度味わいたい。

 

7月16日:微分は丁寧に計算!

 

今朝は少しばかりドキドキしながら居室に入った。

 

先週、理論計算の結果をグラフ表示して眺めていると妙なことに気付いた。エネルギーが保存されていない。運動方程式の解を十分な精度で求められていれば自ずとエネルギー保存則は満足されるはずだが、明らかにそうなっていない。原因はすぐには分からなかったので、会議や講義準備の合間に考え続け、時間ができた時には計算プログラムを一行一行確認してみた。ひとつ気になる点が見つかったので、試してみようと思ったが既に遅い時間になっていたので、計算を走らせて帰宅することにした。

 

居室のモニターの電源を入れて結果を見たところ、エネルギーの収支がちゃんと計算できていた。ほっとした。この研究のちょっとした山を越えられた。同時にひとつ教訓を得た。「微分は丁寧に計算すべし」ということだ。う〜ん、そういえば積分には気を使って高い精度の方法を使っている一方で、微分には安易だが精度の低い方法を使っていたのだった。試しに「解析的には正しいが少し重たい方法」と「安易だが精度の低い方法」の結果を比べてみると、位相がずれていた。この位相のずれが仕事の時間平均値の計算精度を無視できない程度に下げていた。その結果、エネルギー収支がおかしいことになっていた。

 

…という様なことを見つけて教訓を得たので、ややマニアックだがここに記しておくことにした。

 

7月8日:残業?

 

「8月はNO残業月間です」らしい。大学事務からの配布物にこう書いてあった。続きを読むと

 

「仕事はメリハリが大切です。ワーク・ライフ・バランスを保ち、明日からも良い仕事をするために、定時に帰りましょう。」

 

とある。自分の理解が正しければ、私が勤めている大学では大学教員は裁量労働制で雇われているはずであって、勤務時間つまり○○時から○○時まで働くと定められているわけではない。この制度では「定時」という概念はないはずだ。この配布物を我々に配った背景は何なのだろう?

 

7月7日:せんしゅ

 

帰り道に保育園の前を通ると七夕用の竹が門の前に立てかけられており、園児が書いたと思われる短冊が多数つるしてあった。既に暗かったので多くは読めなかったが近くにあった短冊を見ると「かめんらいだーふぉーぜになりたい」、「ぷりきゅあになりたい」というのがあった。やはり、子供の頃の願い事といえば「○○になりたい」なんだなと思った。自分が幼稚園児だった頃に何になりたかったかは覚えてはいないが、おそらく「せいぶらいおんずのせんしゅになりたい」か「きょじんのせんしゅになりたい」ではなかったかと思う。必死に松沼兄弟や鹿取の真似をしていた記憶がある。

 

6月21日:単位

 

「グラフに単位を書いてないぞっ」と偉そうに学生に言った割には、自分も書き忘れていた。

 

単位といえば、最近ひとつミスを犯した。単位時間当たりの量を計算しようとして、毎分の値として得られている量を毎秒の値と勘違いしたのだ。先週の数日間、実験データの解析結果が奇妙なので、「おかしいおかしい」とミスに気づかないまま悩んでいたのだ。これがミスでなければ異常値もしくは世紀の大発見だったわけだが、そんなわけはなく、間違いに気付き訂正したら、解析結果は正しくなったが、驚きは減ってしまった。まあいい、これはこれで結果だ、レポート書こう。

 

6月21日:ゴール

 

「この選手は、ゴールが見えたらシュートしか考えていないですね。」

 

サッカーの試合放送中に、サッカー解説者がしばしば、その選手に好印象をもって語る解説である。最近も耳にした。また、いま読んでいる本には、「ゴール(目的)をはっきりと自分の頭にイメージして、そのゴールにたどり着く自分の姿を想像しながら物事を進めること」の重要性が書かれていた。

 

4月に大学院に進学した学生は、何を研究テーマにするのかを模索している。報告を聴いていると、ゴールをしっかりと見ること(イメージすること)の重要性をひしひしと感じてしまう。「最終目的は何ですか?」、「どういう結果が得られたら、それは目的を達したといえるのですか?」という質問を投げかけてみるのだが、今年度は明確な返答を得たことはない。議論が膠着して、「結局何がやりたいのですか?」と訊いてみると黙ってしまうことが多い。

 

ゴールをはっきりとイメージして、見えたら即シュートを放つ。これを可能にする判断力、勇気、瞬発力が絶対に必要だし、自分も身につけたいと思っている。ゴールがどこにあるかイメージできていないので、矮小なゴールを設定して、それを研究テーマだと主張されても受け入れることはできない。また、ゴールは見えているのに、点を決めること以上にかっこよく決めることの方に思考が傾き、シンプルにシュートを打つのではなく、「かっこいいゴールの決め方」を考え出す、日本サッカーによくある「打たずにパス出す」というやつだ。解説者が「なんで打たないのかっ」と憤る場面である。プレーしている選手から見えるものと解説席から見えるものとは異なるのだから、仕方ないとも思えるが。

 

幸い研究は、「フィールド上」でもできるし、フィールドでのプレーを自分で勝手に中断して「解説席から俯瞰する」こともできる。そうすることでゴールをはっきりともっていたいと思う。

 

6月18日:傘の持ち方

 

降水量の少なさを日々の天候でひしひしと感じるが、それでも前線の場所によっては数日は雨が降る。ということで傘を持ち歩く機会が多い。傘をつ持ち歩くときに自分がどうしても気になるのが、傘を閉じて歩いている時の傘の持ち方である。自分は、傘の柄の部分を指で支えて傘の先端が鉛直下向きになるようにしている。しばしば見かけるのが、傘を握って歩いている人である。歩行中のその人の手の動きによって、傘は回転運動し、先端が周期的に後方下向き、後方上向きになる。上向きになったとき、その人の後方を歩く人にとって危険度は最大となる。なぜなら、両者の距離によっては、傘の先端が後方を歩く人に接触するし、場合によっては顔面近くを傘の先端部が通過することもある。特にエスカレーターや階段を列になって歩いて登る状況では、上向きでなくても接触の危険度は増す様に思う。

 

駅などで時折、傘を握って歩いている人の傘が後方の人に当たりそうになるのを見かけることがある。自分は、傘を握って歩いている人の後方は避けて歩く様にしているが、たまにこわいと感じる時はある。電車の車内アナウンスで、傘の置き忘れに注意するだけでなく、「駅構内における閉じた傘の持ち方」に対しても注意喚起してはどうかと思う。

 

6月17日:はりがね

 

竹竿、木片、はりがねを使って竹馬を作った。これだけの材料で竹馬ができてしまうことに感動した。手先が不器用な自分の工作精度はあまり高くなかったが、一応形にはなった。はりがねを木片と竹竿の周囲に4〜5回巻き付けるだけなのだが、意外にも竹馬に乗る人間の体重をちゃんと支えている。はりがね強し。

 

6月16日:たぶん5月病ではない?

 

日々の雑多な業務やら何やらで、疲労感が抜けなかった。海洋棟だよりの更新も滞った。意識的に勤務時間を減らして回復を試みた結果、ようやく上り調子の気がしてきた。

 

4月23日:元気を出す?元気の出る?(その2)

 

元気を出すための方策として、
みんなで一緒に何か(食事とかスポーツ)する。その結果として互いの仲が良くなることを期待する
について考えてみる。
組織内の仲および隣り合う組織同士の仲が良いに越したことはない。仲が良ければ食事やスポーツ以外の場で助け合える場面もあるだろう。」という風に考えるのは社会の中で生きる者としては当然のように思える。一方で、「仲が良い」ことの意味をもう少し深く追求する必要があるように思う。ドラえもん、のびた、ジャイアンは友人であり世間一般的には「仲が良い」と見なせるであろう。ここで、ドラえもんとのびたとの間の仲、のびたとジャイアンとの仲に分けて考えてみる。他にも、スネ夫とのびたとか、ジャイアンとスネ夫、ドラえもんとスネ夫とか色々あり、各々それなりに考察可能だが、ここではふたつに絞る。
●ドラえもんとのびたとの間の仲
おそらくこの両者は厳密な意味での友情で結ばれていると考えてもよいだろう( 原作者がどのように設定しているかは確認したことはないが)。親友という言葉がふさわしい。のびたはドラえもんの親切さ、優しさに惹かれているのであろうし、ドラえもんはのびたの素直さ、優しさに惹かれているのであろう。相手の存在が日常的に自らをサポートしている、そのように無意識に感じられるから、相手を尊重している。Win-Winの関係といえるだろうか。
●のびたとジャイアンとの間の仲
ここでは「ジャイアン」を「恒常的にのびたを攻撃するキャラクター」と極端に仮定する。この両者の関係は、友情と義理人情との中間辺りと考えることができる。ジャイアンにとっては、のびたは「おれのもの」を増やすための供給源、ストレス発散のツール、自尊心誇示の対象(コンサート)である。一方、のびたにとってジャイアンは、恐怖とはいわないまでも、つかず離れずの関係を維持すればよい程度の対象といえるかもしれない。ただし、だからといって疎遠な関係を望んでいるわけではなく、気弱でか細いのびたからすれば、ジャイアンの豪快さは魅力にうつっている可能性は高い。
大学内にも大小の組織があり、ひとつの組織内に人間が複数いる。組織に元気を出すためには、ドラえもんとのびたの様に、Win-Winの関係を構築することが効果的な気がする。そのためには最初に、組織Aは組織Bに対して、こういうことで貢献できます、組織Bは組織Aに対して、こういうことで貢献できます、とカードを出し合うことが必要なのであろう。ドラえもんとのびたとの間の関係を築けるポテンシャルが仮にあったにしても、この過程がなければ、組織Aと組織Bとの間の仲が良くなることはないであろう。組織Aはますますジャイアン化し、組織Bはますますのびた化する。これをよしとするか否かは考えておく必要がある。ジャイアンがのびたを喰ってしまえば、のびたのもつ良さは消える。ジャイアン化したジャイアンには、のびたのもつ良さはみえにくし、のびたはのびたでジャイアンに対して益々、卑屈になる。一方で、のびたよりも生存能力が高いと思われるジャイアンはパワーアップする(弱肉強食)。いずれにしても、少なくとも一度は、ジャイアンは振り上げた拳を下げ、のびたは泣き止み、ひとつのテーブルにつくことが重要であろう。その後で、ジャイアンとのびたとの間にも何とWin-Winの関係が構築できる活路を見出せるかもしれない。また、時が経てばジャイアンはのびたに、のびたはジャイアンに変化することだってある。

 

カードを見せあうテーブルとして、食事やスポーツは機能するかもしれない。ただし、イベントをやりさえすればよいという考えは、時間とお金と精神力の浪費にしかつながらないと強く思う。運営方法が重要だと感じる。

 

4月22日:元気を出す?元気の出る?(その1)

 

元気の出る組織をつくるにはどうしたらよいか?最近、それを考える機会があった。集められた意見には、
・みんなで一緒に何か(食事とかスポーツ)する。その結果として互いの仲が良くなることを期待する
・使えるお金の額を増やし、かつ使いやすくする。そうすれば成果が増えることを期待する。
・顧客(=学生)の目を惹くものをつくって顧客に見せる。その結果、組織に人気が出ることを期待する。
・元気が無くなる要因を排除する。その結果、組織に属する人間の精神的負担が低減し生産性が上がることを期待する。
等があった。どれも部分的にではあるが、なるほどと思える。元気「の」出る要因・動機がある結果、元気「を」出すのであろうから、その要因と動機について、昼休みに考えてみたい。

 

4月2日:30日間チャレンジ〜読書編

 

今週に入って研究に使える時間が一気にほぼゼロになった。毎年のことなのだがやはり気持の切り替えがまだ下手なようだ。集中力も低下した。だからといって手をこまねいているわけにはいかない。気持ちの上で圧迫感を感じない様にする術を今学んでいるところだし、実行し出せば機能するかもしれない。また今月は読書月間に決めたので本から得られるものがあるかもしれない。そんなことを期待しつつ気持ちを整えることにしよう。

 

TED TalksというサイトでThirty days chanllengeというのを知った。ほんの小さなことでもいいから30日間続けてみるというものらしい。読書を30日間続けるということをやってみることにする。昨日に続いて読む本はヒルティ著『眠られぬ夜のために 第一部』に決めた。

 

4月1日:読書の4月ということにしよう

 

年度末の非生産的な日々のせいか分からないが、講義がない割には今一つな時間を過ごした。悶々と考えるのはやめて活字に走ろうと思う。ということで4月は読書月間に決めた。最初に松井孝典著『コトの本質』。著者である松井先生は尊敬する研究者で、NHKスペシャル『地球大紀行』のシナリオを創った人として子供の頃から知っており(『地球大紀行』の第1集『水の惑星奇跡の旅立ち』は感動もの)講義を受けたこともある。その松井先生が「考える」ことについて述べている。「内部モデル」、「問題をつくる」などの表現をつかって研究者にとって考えるとはいかなる行為かが書かれている。よい指針を得た読書であった。

 

3月24日:手帳を胸ポケットから出してみたい

 

昨日はメモについて少々考えた。自分はよくメモを裏紙に書く(大抵、安物のボールペンで)。それを一定時間は保存しておいて、他のもっとちゃんとしたノートや、パソコン上の書類に転記したら捨てる。これでよいのかと考えた。というのも知的生産において、メモというのは非常に重要な行為と位置づけられメモの取り方について世間では色々と論じられている。ウェブを眺めてみると手帳を使いこなすことによってメモ取りという行為が知的生産に対して非常に良い効果があるらしい。これは知らなかった。

 

ということで、本棚の奥で読まれないまま積んであった野口悠紀雄著『「超」手帳法』の存在を思い出し、目を通してみた。なるほどなるほどと思いつつ折り目を付けたページの内容を列挙すると、
「スケジュール表は真っ白に、メモノートは真っ黒に」
 →白黒の関係が逆になる場合が確かに多い。
「数学者フォン・ノイマンは、(中略)朝起きるとメモ用紙に突進した」
 →「突進した」という言葉の使い方が実に上手い。野口悠紀雄氏の本は、コラム(コーヒーブレーク)の部分に特に面白いことが書いてある。
「メモしていけないことはない」
 →確かにそうだ。この本から教えられたことを一言で言えば、まさにこの点につきる。
「『A4時代にはむしろハンドバックを大きくしてください』とお願いしたいくらいだ」
 →「超」整理手帳をA4サイズ用紙に順応させたことに対する女性ユーザーからの「ハンドバックに入らない」という意見に対しての記述。可愛さを度外視すればハンドバックを大きくした方が遥かに合理的だ。
さて、これまで自分には手帳にメモするという習慣はなかった。4月から常に持ち歩いてみるかな。

 

3月23日:ページの折り過ぎはよくない…

 

実に多くの悩みが生まれては、それをもみ消した3月であった。。。そんな中でもメンタルを維持するために読書はした。立花隆著『「知」のソフトウェア』を読んだ。情報を仕入れて自分の考えを整理して文章として発表するという仕事において筆者の経験を通じて書いたもの。情報のインプットアウトプットの方法として多くの方法が提唱されてきたが、この本ほど現実に即して、かつ正直に書かれているものはないのではないかと感じた。私は立花隆氏の『宇宙からの帰還』の愛読者だが、この著作の資料を得るために、ワシントンの議会図書館にまで出向きバイト動員のうえコピー機を占領して3日間コピーをとり続けたことを初めて知って驚嘆した。自分も資料集めはどちらかというと熱心な方だが、資料を得るという目的で海外に行ったことはない。

 

気になった事が書いてあるページの端を折りながら読んでいたら、最終的にあまりにも多くのページに折り目が付いてしまった。後でもう一度読み直してメモでもつくるか。。。

 

3月22日:30日間チャレンジ

 

3月5日:「いつやるか?今でしょ」と言いたいが…

 

受験生のやる気は瞬時に高まるに違いない。有名予備校のある講師のCMでのこのセリフ、インパクト十分である。受験生心理を考えれば、なるほど確かに簡潔で効果的な激励だと思える。一度はカッコよく言ってみたいという気持ちにもなる。大学というところで学生に対してこれを言ったらどうなるかを想像してみた。う〜む……、そもそも「いつやるか?今でしょ」と歯切れよく口にするシチュエーションがあまりない気がする。仮に言ってみたとしても、素っ気なく応答されるか、とりあえず今はやれないことの説明を受ける羽目になりそうな気がした。大学生と受験生とでは、時間の流れ方がゾウとネズミくらい違うのである。

 

3月4日:考察…

 

論文発表してもよさそうな実験データが秋頃に得られたので、1日1時間くらいずつ時間を使って原稿を書いている。前期入試の業務が終わった後、1日だけ完全フリーな日があったのでキャンパス横断の旅に出て関係する先行研究を片っ端から集め、自分たちのデータと先行データとを比較してみた。同じような条件で実験しているものが見つかったので、詳細にデータを眺めると起きている現象が自分たちの実験とはまるで異なることが判明した。うーん、解釈が難しくなりそうだ。この違いのメカニズムを解明するには、計測項目を増やす必要があるが現時点ではその技術を導入する時間も金もない。だからといってこの先行研究を無視した考察を書いたら、レフェリーに指摘されるにきまっている。論文執筆のある有名な指南書を読んだら、「考察には自分たちの強みと弱みとをはっきり書け」とあったので、この指南通りに書くことに決めた。

 

3月3日:木の上で読書

 

今年の大河ドラマ『八重の桜』では主演の綾瀬はるかさんが木の上で本を読んでいるシーンが時折流れる。これには憧れる。このような木は、腰をかけられる程度に太く、平べったい幹をもち、かつ登り易くなくてはならない。このような条件を満たす木に私は子供の頃はなかなか出会えなかった。木の上に基地をつくり、そこで寝そべったり本を読んだりするスペースを作ろうと試みたことが何度もあるが、いずれも成功しなかった。

 

海洋棟の周りには、本を読める様な木は見当たらないが、多くの木が茂っている大学キャンパス内にはあるかもしれない、今度探検してみるか?綾瀬はるかさんが座っている様な、広々した土地に孤立して立っている木が理想だ。日当たりがよさそうだから。うーん、やっぱり大学内にはないかも。。。

 

2月4日:鬼は痛い

 

週末が節分だったということで鬼になった。軽い小粒の豆とはいえ、寒風吹きすさぶなかで全力投球されたら、命中したときの痛さはかなりのものだ。特に手に当たった時の衝撃は尋常ではない。しかも、手がこちらの弱点だと見抜いた瞬間に、豆を投げる人たちが手に向かって集中砲撃してくる。他の鬼に比べると、多少は頑張った(怖がらせた)方であるが、それでも早々と戦闘意欲を喪失し、豆を投げる人たちと仲直りしたのであった。

 

顔にはお面を付けていたし、メガネをかけていたので幸い顔への直撃は免れた。ちなみに、鬼の衣装はお面とパンツであった。これらのアイテムは以前にお化けになったときとまったく同じであった。

 

2月3日:平手打ち、走り、歌

 

最近の報道で最も頻繁に耳にするようになったのが「体罰」である。私はこの事について是非を論じるための言葉は持っていないので、あくまで個人の体験を通じて感じたことを書きたい。

 

中学生の頃に自分は野球部に入っていた。肩の強さだけは全国平均を上回っていたと思うが、守備と打撃はともにレギュラーを獲れるほどではなかった。極まれに試合に出る機会がめぐってくる程度であった。顧問の先生は体育の教諭であったが、自分は時折この先生から平手打ちされるとともに、長時間の走りや歌を歌うことを要求されていた。自分の中途半端な運動神経が平手打ちと走りの回数を増やしていたことは間違いないが、それ以外に要因がなかったか考えてみよう。

 

記憶に残っている範囲で平手打ちされるに至った事柄を列挙してみると、
確か学級委員か何かをやっていたとき、廊下で騒いでいたクラスメイトを注意しなかったことが巡り巡って顧問の知るところとなった。
ユニフォームに着替えている最中に友人とガムを食べたことが顧問に知れてしまった。
自分の出身中学校ではベランダには出てはいけないというルールがあったのだが、雪が降った朝に教室のベランダに出て積もった雪で少し遊んでしまった(あまりにも綺麗に積もっていたので)。
他にも色々あったと思うが、思い出せない・・・
次に、走りについては、
対外試合中に打席において、ストライクを見逃してボール球に手を出して凡退した。
投手として登板したがなかなかストライクが入らずフォアボールを多く出してしまった。
ユニフォームに着替えている最中に友人とガムを食べたことが顧問に知れてしまった。
弁当を食べるのが遅くなってしまい一緒に弁当を食べていた部員よりも遅くグラウンドに出たら「ダラダラしていたのか?」と訊かれたので「はい」と答えた。しかし実際には、その日は体調が今一つで食事が進まなかったのだが、食べなかったら練習中にバテてしまうという考えが働き、遅くなっても全部食べようとした結果であった。
などが要因であった。

 

さて、「歌」だが、これは校庭の真ん中辺りで大声で歌を歌わされる、というものである。歌わされるに至った理由はたしか、クラス対抗の合唱大会の練習をしている時、音楽の得意なある生徒が
「男子は全然声が出ていない。大会で優勝する気があるのか?」
という類の発言をしたことがきっかけで、「男子全員が本気を出して歌っていない」という事が既成事実化し、それが顧問の知るところとなった。自分のクラスの野球部員はグラウンドで声を張り上げるという罰を受ける羽目になった。少なくとも自分は、合唱の練習には通常通りの気持ちで参加していたと思うのだが、音楽が得意な人の耳には、ヴォリュームが少なく聞こえたのだろう。

 

このように列挙してみると、野球の技能の他にも、試合に出た時の度胸のなさが引き金になっているものが複数あり、この点については走らされた効果はあったと考えるほかあるまい。高校大学と進学するにつれて、少しずつではあるが度胸はついたと感じるからだ。その他の野球とは関係のないことが発端となっている事柄(学級委員、ガム、雪、弁当、合唱)については、単一の結論を出すことは難しい。

 

今にして思うと、平手打ちと走りについては、年号が昭和から平成に変わる時代下にあっては問題視するほどのものではなかったといえるかもしれない。

 

一方で、歌はどうか?屈辱の度合いという意味ではトップクラスだと思う。何せ、後輩や女子もいる前で、声を張り上げるのだから。問われるべきは、「グラウンドの真ん中で何か叫ぶ」という行為が、歌わされた人間の成長につながったかどうかである。少なくとも歌唱力の向上にはつながらなかったことは確かだ。自分は体罰の是非論を論じることはできないが、少なくとも「体」の付かない単なる「罰」を与えるのならば、合理的かつ現代的なものが考案されて然るべきであるとは感じる。「グラウンドの真ん中で何か叫ぶ」よりも「男子だけヴォイストレーニングを追加で1時間」の方が、クラスの合唱大会制覇に向けた雰囲気は遥かに高まったはずである。

 

結論としては、顧問が自分の身体的精神的弱点を見抜いた上で、自分にやらせたものについては素直に受け入れたいと思う。その一方で、事の発端から帰結にいたるプロセスが理不尽だと感じられるものについては、「理不尽だ」という意見を言うべきであった。「運動部員たる者、他の生徒の模範となるような態度で生活をするべし」というのが顧問の基本理念にあったとは思うし、中学生時代の自分がこの理念に沿おうと一生懸命だったことは確かだ。しかし、教諭と生徒(であった私)が半ば共有していた、その頑なまでの理念重視の雰囲気が、中学生活に、ある意味での秩序はもたらした一方で、ワクワク感や、キラリと光る面白さを低減させたことは確かである。自分が大学という場で学生と自由闊達に研究する職についているのは、この中学時代の面白くなさのリバウンドなのかもしれない。

 

「体罰」から話が逸れて長々と書いてしまったが、自分と「体罰」との関係について教訓を整理すると、(1)自分と体罰を与えた人との関係において、自分の成長につながる手段として双方納得のいくものなら、その効果はゼロではない可能性がある(誇張されてはいるが、『スクールウォーズ』や『スチュワーデス物語』の名シーン(古いなあ・・・)が好例であろう)、(2)理不尽なものについては、理不尽だと主張するべきである、ということになろうか。

 

2月2日:祝日

 

今月は2月11日(月)が建国記念の日で祝日である。この時期の祝日は業務に少なからぬ影響が出る。月曜日が休日となったことによって、ある業務で日程を圧縮せざるを得なくなった。また、2月11日から始まる週のある日に、トリプルブッキングが生じてしまった。う〜む・・・

 

先週、ある先生に「2月のスケジュールって限界を超えているように思いませんか?」と尋ねてみたら、「そうですよね。一つやることを増やしたら一つ減らさないと無理ですよね。」と同意してくれた。海洋棟で働き始めてから5年が経とうとしているが、そのわずか5年の間だけでも教育研究以外の雑務は劇的に増加している。その一方でマンパワーは確実に減少している。

 

2月1日:毎日

 

昨年同様、今年も秋から冬にかけて更新が滞った。更新を欠かさないためにはエディタを開く必要があるわけだが、雑務が立て込んでいるとその気持ち的余裕すら無くしてしまう様である。世の中には、毎日ブログを書いている人が多数いる。しかもかなりの長文。いったいどれだけの時間をかけているのか?と考えてしまう。そういう人は時間の使い方がきっと上手なのだろう。