YNU -Marine Environment Design Laboratory-

2012年

12月3日:ありがたやありがたや

 

先日、ある理論計算の研究をしている院生が、私が書いた計算プログラムの中に、かなり致命的なミスがあることを見つけて指摘しに来てくれた。どうも計算結果がおかしかったので、色々と強引に理由を考えて結果を解釈していたのだが、その解釈はあまり正しくなく、結局はプログラミングの初歩的なミスであった。その院生に申し訳ない気持ちと、問題が解決した嬉しさ両方を感じたのであった。

 

プログラミングは自分が大学院生の頃から行っている。学生の頃のソースプログラムは、文字がゴチャゴチャと並べてある感じで、ミスが発見しにくかった。なので、最近は見た目重視で、裏紙に下書きをしつつ見やすいプログラムを書くようにしていた。そのおかげか以前と比べて、かなり長いプログラムでも正しい結果を出力するものが作れていた(と思う)。しかし、ミスは起こった。うーん、まだまだ修練が必要である。

 

いずれにしても、一緒に研究をしている学生が指摘してくれるのはありがたいことである。

 

11月22日:目指せ!Aqua blue collar worker

 

最近、ワードやエクセルで書かれた書式に事項を記入する作業ばかりやっている。自分が完全にwhite collar労働者になった気になる。。。実験や観測など身体の動きがともなうBlue collar労働者と、色々と頭をつかって考えるWhite collar労働者の間の子のような労働形態が自分にはあっていると思う。青と白とがコロコロ入れ替わるのだ。言わば、青と白を混ぜたら水色だから、Aqua blue collar workerだ。うん、これが理想だ。

 

前職の研究所時代は、水槽実験の合間に水槽の台車の上で、メモ用紙を見ながら理論の考察をするという、まさにAqua Blue collarな労働を体現できていた。大学に来てからここ1年ほど、段々と襟の色が白くなってきてしまった。来週から学生の水槽実験も始まるし、いい機会だから今一度、Aqua Blue collar workerになるべく頑張ってみよう。

 

11月20日:Yes! I will…

 

先日何気なくテレビをつけたら『ふしぎの海のナディア』がやっていたので思わず見入ってしまった。自分が子供の頃やっていたアニメだが、私はこのアニメのオープニングとエンディングの曲が好きであった。両方とも森川美穂さんの歌である。オープニングの『ブルーウォーター』の方が有名だが、自分はどちらかというとエンディングの『Yes! I will…』という曲の方が好きであった。エンディングでは、ナディア達が土手の様なところを走っているその頭上で紙飛行機が飛んでいるシーンが流れていたと記憶している。その画面が全体的にオレンジがかっていたので自分は夕刻をイメージしていた。子供の頃、自分は毎日の様に団地周りで遊んでいたがちょうど遊びから帰る夕刻の時間帯の物憂げな雰囲気と、このエンディングが醸し出す不安と希望が入り混じった様な雰囲気が妙に一致したのを覚えている。

 

『Yes! I will…』の歌詞に、

 

Try 過ぎてゆく時間の中で何を求めてゆくのか
自分にしか見えないとわかっているから
果てしなく遠い夢でもきっとつかんでみせるよ
流されずにまっすぐな心を信じて

 

 

Try 慰めの言葉なんて心に届かない風
抱え込んだ不安だけ大きくなるけど
自分で決めたことだから多分ひとりでも平気さ
つまづいても迷っても明日があるから

 

という部分がある。子供の頃は歌詞の意味なんてまったく分かっていなかったけど、今改めてこの歌を聴くと子供の頃の自分がなぜこの歌に惹かれたか何となくだが、わかる気がする。

 

11月15日:「私がオバサンになったらあなたはオジサンよ」か。確かに。

 

昼の休憩時間は昼食をとったあと、音楽を聴くことが多い。この数カ月ほど、森高千里さんの『私がオバさんになっても』がマイブームだ。デートの場所がサイパンであったりディスコだったり、「オープンカーの屋根外してカッコよく走る」など、歌詞の中に「好景気な昭和」を感じさせる部分がいくつかあるものの、今でも好きな曲である。力強い感じの曲調が好みだったりする。男という立場でこの曲を聴くと、内心思っていることをズバリ指摘されている様な気がするのだが、一番気になるのが、

 

「私がオバサンになったらあなたはオジサンよ」

 

というサビの部分である。あまりに真実すぎて意外と忘れている事実ではある。

 

11月14日:没頭できたあの頃

 

先週ある人との会話で、研究に没頭できる時間の長さについて話した。その人と私の共通点は、自分の研究に集中できる時間が1〜2時間あればその日は幸運な日、ということだった。勤務時間の大半は研究以外のことに時間を使っている。大学に着任してから5年目だが、今年度は事務的な仕事が着任以来最も多い気がしている。これからもっと研究する時間が減っていくのかもしれないが、何とか心を整えつつやっていきたいのものである。

 

自分が大学院生、および大学のポスドクだった頃、朝から晩まで研究できていた。今にして思えばすごく幸せな時間だったわけだ。そのときに、ひとつの事柄にずっと没頭する活動に味を占めてしまったがために、大学の教員などという(浮世離れしている?)職業に就いているわけだが、教員という立場から自分の周りにいる大学院生を眺めてみると、必ずしも大学院生だからといって皆が研究に没頭できているわけではないようだ。やる気はあるのだけれでも、家庭の事情などにより研究作業に取り組む時間が限定されていたり、進路(就職)のことが気になりすぎて地に足がついていない状態だったり、義務感だけで大学にいるような精神状態だったり。

 

そのような大学院生は、研究生活を「楽しむ」というレベルに達することができていないように見える。最近スポーツ選手が試合や競技後に「楽しむことができました」というコメントを残すのを頻繁に耳にする。身体と心とが湧き立つような時間帯があり、それを生きがいにしていることから発せられる言葉であると思う。自分の場合は、研究に取り組んでいるときは少なくとも苦痛ではないし、目を見張る様な結果が出たときは興奮する。おそらく「楽しめて」いるのだろう。

 

もちろん皆が皆、研究が好きというわけではないから、自分の目には楽しめていない様に見えても、別のことで打ち込むものがあれば、それはそれでいいんだろうと思う。いずれにせよ、20代半ばに没頭できるものにありつけ、かつ実際にそういう時間を過ごせたのは本当にラッキーであった。それだけは確信をもって言える。

 

11月13日:査読への対応

 

夏ごろに投稿した論文原稿の査読結果が返ってきた。「修正して再投稿せよ」とのことである。査読者のひとりは短いコメントで、こちらが「ごもっとも」と思うしかない内容を指摘してきた。このコメントが要求していることにちゃんと応えようとすると、かなりの作業が必要だ。。。う〜ん。。。10分くらい考えたあげく、ちゃんと応えることに決めた。明日から、作業に取り掛かるとして、今月中になんとかなるだろうか。

 

11月12日: 久々に更新

 

ホームページの更新をするだけの気持ちが余裕がない現れだろうか?大学に奉職してから、今年の前半は最多の事務処理量であったと思う。秋が深まり、やや落ち着いた感はある。悩みなどを文に書き出すことによって解決へのきっかけとなることもあるという。短くても何か書いていこうという気にようやくなった。

 

寒くなってきたが海洋棟周囲の銀杏の葉はまだ黄緑色である。銀杏の木立の中を時折、巨大なススメバチが飛んでいるのが見える。そのスズメバチが飛んできて窓ガラスに衝突することがある。もし窓を開けていたら侵入されてしまうだろうから恐いといえば怖いが、当分窓閉めっぱなしだから大丈夫だろう。

 

10月1日: 夏の忘れもの

 

8月と9月が、あっという間に過ぎ去っていった。海外一ヶ所をふくめ、色々なところに出かけた。講義がないのに大学内外の業務(≒会議)はあまり減らず、結構時間を費やした。じっくりと研究に没頭する時間がほとんどなかった。参加した国際会議でも今ひとつ気持ちが乗らなかった。うーむ、いかん。気持ちもなにか落ち着かなくて、「海洋棟だより」の更新も滞ってしまった。酒席での何気ない会話で仕事の元気が出たりするのだが、今夏は暑気払いなどのチャンスが2回も業務で失われた、これが痛い。

 

9月終盤辺りから少し気持ちが落ち着いた気がする。学食のサンマでも味わいながらじっくりと頑張ることにしよう。

 

7月24日:「おとな」って?

 

今朝は通勤の電車内で、中学生同士のちょっとしたトラブルを目撃した。部活で遠征試合があるのだろう、ジャージ姿の集団が巨大なショルダーバックを抱えて車内にたむろしていた。どうやら、その中の一人の男子生徒が持ってくるはずだった道具を持ってくるのを忘れたらしい。周りの生徒から非難の声が集中していた。その男子生徒は完全に萎縮してしまっていた。部活をやっていれば、時折あるような事だとは思う(私はキャッチャーマスク一式を忘れたことがある。幸い相手チームからレンタルできた)。しかし私の主観では、その非難の声(ここには記さない)が常軌を逸していた様に思う。たった一回のトラブルを目撃しただけで、いわゆるいじめと決めつけることができないものの、完全に沈黙してしまったその男子生徒と、冷笑する他の部員(キャプテンと思しき人物も含む)を見て、最近いじめが再び社会の関心を集めていることも手伝い、ふと自分が小学生の頃を思い出した。

 

私は、いじめもしたし、いじめられもしたと記憶している。両方とも決してよい想い出ではない。両方とも、ネガティブな記憶として残っている。そのせいか、数年前に電車の車内広告に下記の文章が掲載されているのを見つけたときは、強い衝撃を受けたことを覚えている。さきほどネットで調べたところ、読売新聞の『編集手帳』に掲載されたものの様だ。

 

「ひとの心を傷つけて喜ぶ心さびしき者に聞く耳はもたなかろうから、中傷された君に言う。蠅たちの集まりでは、蝶も「キモイ」と陰口をたたかれるだろう。心ない者たちのうちにも自分と同じ美しさを探しつつ、君は一人、大人になればいい。」

 

そもそも自分に「美しさ」があるのかは分からないし、あるとすればどんなものかも分からないが、少なくとも「あるんだったら見つけてみたいな」とは思う。

 

この文章の最後、「君は一人、大人になればいい」の部分は、一見やや突き放した感じがするが、おそらく最も重要な部分なのだろう。「一人」、「大人」の意味をあれこれ考えだすと、この言葉のあまりの含蓄の多さに驚いてしまう。小学生の頃から確実に年齢は重ねたが、私は「大人」になったのだろうか?

 

7月23日:手仕事

 

先々週末と先週末を利用して、『失われた手仕事の思想』(塩野米松著、中公文庫)を読んだ。鍛冶、屋根葺き、竹細工、炭焼き、石工などなど、職人の手による技術が現在、風前の灯火のあることを述べた本である。私の現職は、職人とは異なるものである。しかし心のどこかで、職人の太い筋が通った生き様というか、黙々としてはいるがその結果はキラリと光る仕事っぷりのようなものに憧憬の念を覚える。もし身近に職人がいたならば、その人の影響で職人の道を志し、この本の中で語られる様な厳しい徒弟制度の中に身を置いた可能性はあったのかもしれない。

 

7月22日:こういうの結構ある気がする

 

昨日は「場数を踏む」という言葉を間違って理解していたことを書いたが、今日はもうひとつそのような例を思い出したので書いておきたい。それは「台風一過」。あるときまで「台風一家」だと思っていた。台風I 号はお父さんで、台風J号はお母さんで、台風K号はお兄ちゃんで、台風L号は妹で、みたいな感じ。この間違いについては、ある人物も同じ誤解をしていたことが分かったことがあり、会話が盛り上がったのを覚えている。

 

7月21日:ばかずをふむ

 

夏到来ということで、祭りの開催通知を目にすることが多くなった(といっても、この日の最高気温は季節外れの20度前後で夜は寒かったが)。さて、その祭りであるが、子供の頃は神社の祭りに行くのが楽しみで楽しみで、景品やカブトムシを手に入れるために奔走したが、この日は祭りを部分的にではあるが準備・運営する経験をした。お化け屋敷といえば夏の定番だが、お化けに扮する人間がいて初めてお化け屋敷というものは成立することを、この日始めて実感した。というのも、お化け役に任命されたからである。

 

闇の中で人を驚かせるという行為は、おそらく私が最も苦手とする行為のひとつだと思う。理由は二つある:ひとつ目は、闇の中で長時間にわたって待機することが好きでない(要するに怖い)こと、ふたつ目は、客としてお化け屋敷に入ってきた人に恐怖を感じさせるために演技することが得意でないことである。

 

この日、私にとって幸いだったのは、お化け役は私一人でなく4人ほどのグループであったことだ。最初は躊躇もあったが、段々と周囲の方の影響を受けつつ、お化け役に徹するというか楽しんで驚かすことができるようになった。

 

お化け役ひとつとっても、場数を踏むことは大事だと思った。んで、この「場数を踏む」だが、あるときまでこの言葉の漢字を知らなかったので、「バカ(ず)をふむ」だと思っていた。「ず」に特に意味はなくて、「をふむ」は「になる」という様に適当に解釈して「バカになる」という様な意味だと思っていた。もちろん、この理解は国語的には正しくないのだが、場数を踏むこととバカになることの間には、何か共通点があるような気がする。恥ずかしいとかそういう感情を捨てて「バカ」になって、どんどん経験するという様なイメージである。

 

さて、私がお化けとして驚かした人々がどのような感情を抱いたかは定かではないが、私にとってはよい想い出となったと思う。来年の夏もまたやってみたいものだ。お化け役に任命されるかは分からないが。

 

7月10日:頭の外に出す?

 

7月6日に記した堀正岳氏の本によると、頭で「あれをしなきゃ、これもしなきゃ」という風に考えていると非生産的な時間を過ごしてしまうという事が記してあった。Getting Things Done(GTD)という考え方が紹介されており興味を持った。これはビジネスコンサルタントのDavis Allen氏が提唱したもので、やる必要のあることを紙やPCなどに書くことによって、「その件を頭の外に出す」ことが重要なのだそうだ。うーん(←なんとなくはなるほどと思ったが、完全には理解できていないという意味での、うなり)。

 

ここ数年来、やるべきことを紙に書いて貼っておくTo do listのようなものは試したことがあったが、私にはあまり効果的でなかった気がする。ウェブでサッとGTDのことを調べてみると、To do listとはどうやら異なるものであるらしい。そこで、ここはひとつ一般教養を身につけるつもりで、GTDのことをもっと正確に知ってみようと思い立ち、Davis Allen氏著"Getting Things Done"をマーケットプレイスで購入してみた(それにしても洋書はなぜ安いのか?)。英語の勉強だと思って読んでみよう。このたよりで追って報告できればいいなあ。できるかなあ。

 

7月6日:メールのために研究を諦めた時があります

 

いつの間にか7月に入っていた。6月から今月にかけて学内外で所用(「雑用」と書くとすべての件にネガティブな印象をもっているという感じを与える気がしたので所用と書いた)が増え続けている。8月末まではあまり落ち着けない感じである。所用の数を数えようとしたが「1, 2,…」辺りで挫折した。

 

じっくり研究に没頭する姿というのは、もはや前時代的なのかもしれない。「大学教員というのは、こういう職業だったっけ?」などど悲観的に考え始めても仕方ないので、失敗がない様に、手帳へメモを頻繁に丁寧に記すように心がけるとともに、web上のカレンダーに大事な予定は書いておいたり、検索機能に優れたメールソフトに切り替える(旧メーラーから新メーラーへの移行でトラブルがあったが)などして対応してきたつもりだ。

 

その甲斐あってかは分からないが、今のところ心身ともに壊れてはいない。ひとつのヒントを与えてくれたのは、『理系のためのクラウド知的生産術』(堀正岳著)という書籍である(著者は研究者で、私と専門は異なるが、気象とか海とか広い空間スケールを扱うという意味では共通点がある)。今のような時代に、ひとつのまとまった研究成果を出すには、心構えとか精神論のみでは通用しない部分も多く、堀氏が紹介してくれている様な、ある種のテクニックが必要なのだろう。

 

6月12日:いきあたりばったり

 

私は研究というのは、「自分は○○を作りたい、実現したい、解決したい!」という願いから始まるものだと思う。この願いというフニャフニャしたものを、う〜んう〜んとうなりながら具体的な言葉に落とし込んでいき、自分がこのタイミングでやる価値があるかを考えながら、やっとの思いで「研究の目的」と「期待される結果とか意義」を考えプロポーザルを書き、とりあえず予備的な実験なり計算を始めてみる。ここ数年は、「願いの行きつく先、つまりゴールは何か」を強く意識して自分の研究は進めてきた。正しいのかは確信はないが一応、最近意識していることのひとつである。

 

何かをやりたいという気持ちがすごくあるにもかかわらず、その「何か」が決められないためにあまりハッピーでない時間を過ごしてしまう学生は少なくない。そういう状況からなるべく早く抜け出して、ゴールに向けて邁進するように仕向けるのが教員の役目だと思うが、すべての学生をそのように導くのは難しい。自戒のために、学生とのやり取りを通じて感じたことを文章化してみる。

 

(1)目的が定まっていないのに、手法を決めてしまう

 

目の前にあるちょっと良さ気な、かっこいい装置や方法があると、それに飛びついてしまう。その装置や方法で何をして、何を実現するのかを考える前に。結果的に、その手法で行き詰ったときの代替策を講じることができずゴールにたどり着けない

 

(2)既存の論文に書いてあることを絶対視

 

結果が出ずに作業が泥沼化してくると、根気よく続けて結果を出すことを半ば放棄し、文献を読みだす。そこに自分の泥沼状態を正当化できるような事が少しでも書いてあると(例えばひとつの図、ひとつの式)、それを盾に自分の研究はここで終わってもいいんだということを主張し、自分が最初に定めた研究目的は簡単に破棄される。こうなるとコミュニケーションの困難さは格段に増す。 

 

(3)データを得ても論文が書けない

 

大学教員になって以来、目的を伴わない作業がいかに悲惨な結果を生むか、を何度も目の当たりにしてきた。実験でも計算でも何か作業しさえすればそれが研究だ、それで周囲の人(教員や他のメンバー)は認めてくれる、と思い込んでいる。博士課程の場合投稿論文が受理されなければ修了できないから、「それで論文を書いてみましょう」と提案するのだが、目的が定まっていないからdiscussionができず、初稿は論文の体をなしていないことが多い。ただの作業報告書である。これを修正することはゼロから論文を書くことよりも手間がかかる。 
以上の様な反省点を得た。

 

5月22日:流体力学と数値流体力学

 

私自身は、このどちらの専門家でもない。必要最低限の知識や手法を学ばせてもらって自分の研究に応用している。しばしば指摘されることではあるが、「同じ流体現象であるのに数値流体力学的な側面ばかりを取り上げて、流体力学的な側面が一切含まれない、つまり物理現象に対する力学的な解釈がない」研究というのが増えていると感じるときがある。

 

今日は研究室の学生が、まさにそういう論文の改訂原稿をもってきたので、少々厳しい口調でたしなめてしまった。Results and discussionという一番重要な章にresultsは書いてあるのだが、discussionが見当たらなかった。「○○という視点で考察が可能だと思う。短くてもいいから計算結果を物理的に解釈したパラグラフを追加して。そうしないと査読に通らないよ」と言ってあったのだが、まるで追加されていない。しかも、非常に参考となる資料を渡してあったにもかかわらず。

 

最後に「明日までに流体力学を勉強してきてください。」と、かなり無茶なことを言ってしまった。。。しかし、現状では止むを得ないか。

 

5月21日:フィルター買えばよかった

 

午前7:30頃、海洋棟の玄関前にたどり着いた。少し前は小雨が降っていたが止んだと思ったら、雲の切れ間から太陽が見えた。「これは見えそうだ」と思い、思わず絶対にやってはいけない方法、肉眼で太陽を観察した。一瞬だけしか見なかったが、確かにリング状になっていたことが分かった。しかし肉眼では中心部分はぼやけていてはっきりとしたリングには見えなかった。

 

5月18日:新幹線車中思考再び

 

神戸での用事が終わった後、すぐに新幹線に飛び乗った。急いで帰りこの日のうちに、ある雑用を済ませないといけなかったのだ。ノートパソコンを開き、作業を始めた。京都辺りまでは書いたり消したりで進展なし。名古屋でこだまに乗り換えてから、三河安城辺りで作業が一段落した。よかった、これで夜更かししないで済んだ。

 

浜松辺りからは、自分が昨年行った研究の次の一手を考えることにした。静岡、三島辺りでは堂々巡りであったが、熱海辺りまで来たとき、シンプルかつ重要そうな課題をひとつ思いついた。忘れないように手帳に殴り書きしておいた。実がなればいいな。

 

5月16日:飽和

 

やらなければならない業務の数が多くて、居室の物の乱れが限界に近付きつつあった。少しだけ廃棄したがまだ全然すっきりしない。

 

明日から神戸で学会だというのに、頭がなかなか出張モードにならない。いかん。。。

 

5月11日:島で

 

大学院時代の恩師が伊豆大島で行っている生態系に関する実験を手伝うために、留学生一人を連れて2泊3日で伊豆大島に行ってきた。人気のない漁港でアクリルのタンクを洗い、島の人が船で汲んできてくれた海水をひたすらタンクに注ぐという作業を行った。短く単純な作業ではあったが、かなり楽しい時間であった。

 

海洋棟で研究活動を始めてからというもの、海洋の生態系、ないし環境に関する研究はあまりしていなかったのだが、数年ぶりにもう一回やってみようという気になった。もともと、現場で起きている現象とバーチャルな現象(机上での計算)とを両方よく観察して、何か新しい事柄を見出すスタイルが一番好きである。よい機会を与えられたと思う。また参加したいものだ。

 

久しぶりに「海洋棟だより」っぽいこと書いた。

 

5月1日:大人買い

 

以前から『東京エイティーズ』という漫画(全11巻)が気になっていた。というのも行きつけの床屋に1巻から4巻まで置いてあったので、ふと手にとって読んでみたのだが、自分好みの物語に思えたのだ。大学生の恋愛とその破綻、その後の人生を描いたものと思われるが、4巻までしか読んでいないから全体像が分からないのだ。ということで昨夜、全巻購入を思い立ちネットで探してみると、古本であれば2000円程度で全巻買える様だ。こういう買い物では、しばしば私の最終決断は揺れるのだが、以外にあっさりと購入ボタンを押した。配送が待ち遠しい。

 

こういうのを大人買いというかは分からない。古本で高々11巻だし。新品のこち亀全巻は完全に大人買いだと思う。
そういえば、福岡の大学で研究生活をおくっていたころ、キャンパス内の学食に『いとしのエリー』が全巻そろっていたので、研究そっちのけで読んでいたことがある。福岡を離れることが決まったとき私は『いとしのエリー』が読めなくなるのが淋しくて、古本を全巻購入したのだった。これも2000円くらいだったと思う。
実は、もうひとつ気になる漫画(まだ買っていない)がある。『武田信玄』、『武田勝頼』という武田氏の栄光と滅亡を描いたものだ。これも部分的ではあるが行きつけのラーメン屋にあるのだ。かなり読み応えがある。

 

床屋、学食、ラーメン屋・・・よい漫画との出会いは色々なところにあるなぁ。

 

4月30日:地道

 

また実家から本を拝借してきた。今回は『生物と無生物のあいだ』(福岡伸一著)。最近、多くの本屋で平積みになっていたことは知っていたが買ってはいなかった。実家にあったのでラッキー、ということで一気に読んだ。序盤のロックフェラー大学の描写は美しい。おもわずNYに行ってみたくなる。
中盤の読みどころは、二重らせん発見に至る真実をつづった部分。以前にきわめて有名なワトソン著『二重らせん』は読んだことがあった。DNAの構造を明らかにしたワトソンとクリックの研究の裏舞台が書かれていて印象的だったが、福岡氏の本を読み『二重らせん』が、あくまでワトソン目線で書かれたものであることを知った。『二重らせん』ではフランクリンという科学者のことが書かれているが、極めてヒステリックな、あまり仲良くしたくない様な人物として批判的に表現されている。しかし、福岡氏の本によるとワトソンの描くフランクリン像は必ずしも客観的なものではない様だ。しかも、フランクリンが地道に続けていた実験データが、二重らせん構造の発見をもたらす重要なトリガー(のひとつ)となったらしい。

 

いずれの本の中でも、フランクリンは「地道に実験を重ねてデータを丁寧に解釈していく研究者」として描かれている。彼女自身が科学者最高の栄誉に浴することはなかったわけだが、その研究態度は研究を生業とするものにとって惹かれるところがある。

 

久々によい読書をした。

 

4月23日:タイプミス

 

職業柄、「…大学」という言葉をキーボードでタイプする機会が多い。平均すると一日に5回くらいだろうか?私は「大学」と打ち込むために「daigaku」とローマ字をタイプし「だいがく」と表示させ漢字に変換するのだが、しばしば「diagaku」と打ってしまい、これを変換すると「ぢあがく」になってしまう。2文字目の”a”と3文字目の”i”の位置が入れ替わってしまうのだ。”a”は左手の薬指、”i”は右手の中指で押す習慣が私にはあるが時折、この順番が乱れる。焦っているときには複数回、繰り返すこともある。そういえば昔、管楽器をやっていたときも、右手と左手の連動が乱れて苦労したなあ。。。

 

4月19日:すべてさらします

 

これまでの研究生活で溜めてきた文献コピーをスキャンしてPDF化する作業を進めている。私は論文をよむとき赤ペンで「なるほど」とか「これは使える」、「どうして?」「同意できない」などのコメントを書く癖がある。スキャン作業中に昔のコメントを見ると、理解不足による的外れなものや「ねむい」とか「からあげ食べたい」、「うおー」とか、論文の内容とはまったく関係のないものもある。これをクラウドに置くということは研究室の学生に、このコメントを見られるということだ。

 

修正ペンで恥ずかしい場所を消そうかとか、恥ずかしいものは共有フォルダに置かないとか色々考えたが、選別するのも面倒なのですべて共有フォルダに置いてしまった。学生の研究に役立つことをねがう。

 

4月19日:ザ

 

英文校正業者に依頼していた投稿論文原稿が真っ赤になって帰ってきた。その多くがtheを挿入せよと指示している。うーん、私の書く英文はtheを入れるべきところに入れない傾向があることは確かだ。

 

4月18日:乗り過ごし

 

朝、昨夜の問題を考えながら電車に乗っていたら乗り過ごした。「あっ」とほんの一瞬焦ったが、すぐに「まあいいや」と思い直し次の駅まで乗った。往路では駅をひとつ乗り過ごしても歩く距離に大した違いはないのだ。
さて…その次の駅から、住宅街の中を申し訳なさそうに上へ伸びる階段をひたすら登っていると、もはや通勤ではなく、ちょっとした山中修業かピクニックをしている錯覚に陥る。…実はこれが大学が受験生に推奨している正規の通学ルートだったりするわけだが、試験前にひたすら山登りを強いられることによる成績への影響はないのだろうか?無難にバスで来た受験生に比べて疲れて不利かもしれないし、血の巡りが良くなって逆に有利かもしれない…そんな(しょーもない)ことを考えながら海洋棟にたどり着いた。

 

4月17日:えいりあじんぐ

 

夕方から研究の時間が取れたので計算を走らせてみる。数値積分の結果が何か変だ。その原因を追究していくと、高周波成分の被積分関数がうまく計算できていないためと分かる。これは対処が必要だ、なんとかせねば・・・・・・と思ったが、夜遅くなってしまった。うー、最近早く帰れない。。。

 

4月16日:恋が素敵な理由

 

つかの間の休憩ができる昼休みはYouTubeの音楽を聴くことが多い。井上昌己さんの『恋が素敵な理由』が最近のマイブームだ。懐かしい。YouTubeのコメントを読むと、90年代のJapanese popsを称賛するものが多い。「90年代は確かにいい曲が多い。90年代万歳」…そう思うのはコメントを書いている人と私が同世代だからであろう。

 

4月10日:ゴワゴワ

 

ちょうど一週間前,爆弾低気圧の襲来で暴風と大雨に見舞われた。年に数回あるかないかの学内放送があり、速やかに帰宅せよと言う。愚かな私はその指示を1時間弱無視し作業を切りのいいところまで進めようとしてしまった。それがいけなかった。自宅の最寄りに着く直前にドシャ降りになった。本屋で雨宿りを試みるが、その本屋で数日前に本を買ったばかりであり、いまひとつ立ち読みの意欲が出ない。「ええい、ままよ」と無謀にも暴風大雨の中を歩きだした。

 

さて家に着いてリュックを開けてみると、革製の手帳は無事であった(ビニール袋で包んであった)が、ノートは無事ではなかった。このノート、今やっている研究のメモ書きなのだが、不運にも水性ペンで記した個所があり、その部分だけ見事に滲んでしまった。ぐふう
数日後、そのノートは乾燥したが、ふちがゴワゴワになってしまった。ノートを美しく書くことにはまるで無頓着な私だが、さすがにゴワゴワは気になる。あと数ページしか残っていないので早く使い切ってしまいたい。

 

4月9日:紙

 

前月(3月)中に捨てるはずだった書類は依然として部屋に積み重なっている。。。今日から講義が始まりますます書類は増えていくのだろう。いかん、限界を超えないうちに一念発起して捨てに行く時間を確保せねば…
自分が大学院生のころから集めてきた(溜めてしまった)資料(論文のコピーや学会講演集)は長らくファイルに収められていたが、近頃それらを研究室のメンバーと共有しようと思い立った。クラウドの利用である。上手く機能するかは未知だが、居室内の物の少量化には良さそうである。スキャナーよ、当面は泡を吹かないでくれ。

 

4月8日:ジミーさん

 

日曜夕がたにサザエさんをみる習慣がついて久しい。この日は若手の大工であるジミーというキャラクターが登場した。寺での修業に耐えられず棟梁の元から逃げているという話である。いまどきの若者風の外見だが、サザエさんに出てくるキャラクターだけあって中身は良すぎるぐらい良い人。ジミーを一時的にかくまう三河屋もなんていい人なんだろうと思う。
自分はサザエさんのキャラの中では中島が一番好きである。カツオを呼ぶときの「イソノ〜」という声が、彼の朴とつながらも純真な性格を象徴している。だからサザエさんの視聴中に中島の登場を心待ちにするときがあるのだが、そういうときに限ってなかなか出てこないのも中島である。

 

4月4日:対角化

 

意外なところからこの雑文の更新希望が来たので,半年ぶりくらいに雑文書きに復帰した。
この日の昼休み、現在進めているミニ研究(「研究」というほどちゃんとやっていないが時間が余ったときにちょっとだけ手をつけるテーマのこと)で、行列を対角化してみたくなった。大学1年のときに線形代数を習って以来、演習問題以外で対角化をちゃんと応用したのは初めてのことだ。この路線で正しいかは計算結果次第だが…